2004.12.17

『ハウルの動く城』ちょっと読み解き

『ハウルの動く城』を見た。
 いろいろな読みときを考えさせる作品だ。

 ひとつは、ハウルと3人の母の物語としての側面。
 ひとりは息子の心を自分にとどめておきたい母、息子の恋人でありたがる母、荒れ地の魔女。ひとりは息子を思い通りにさせたい母、息子の意志を認めたくない母、サリマン。ひとりは甘えさせたい母、慈しみたい母、ソフィー。
 口でいうほど弱虫には見えないけれども、少なくとも相当に人間的には未熟な子供存在としてのハウル。

 3つの母が統合され、納得する状態にならなければ大人への階段は登れない。
 母は、息子の心を手放し、息子の意志を認め、息子をいつくしみ世話をするだけでなく、成長をうながし自立させられるようになって、はじめて母として完成する。
 これによって、最後に母からの一人立ちがなされ、ソフィーは母から恋人ないし妻の位置に移動する。


 ソフィーサイドで見れば、確かに呪いをかけられて困ったはずなのに、逆に若さという呪いから解き放たれることで、本来の、素直でやさしい姿に立ち帰る。
 結局、かけられた呪いは確かに一時的に姿を老婆にしたけれど、それはソフィーの心が老婆のそれと同等であるから、形もそれと等しくなったというだけで、呪いというのは心が自分をしばっているのだという点に気がつかないことそのものなのかもしれない。


 また、構図の一端は、大切なものを投げださなければ本当の物は手に入らないという事を垣間見せる。

 ソフィーは若さを(そして髪)を失い、荒れ地の魔女は力を失った上ハウルの心臓をあきらめ、サリマンはハウルを思い通りにすることをあきらめ、カブは背骨にあたる棒を投げだすことによって、カルシファーはすでに命と不可分のハウルの心臓を失うことで、それぞれの愛や心の平安にたどりつく。
 ハウルもまた、心臓を失って得た城を動かすほどのカルシファーの力をひとたびなくすことで、心臓を取り戻し愛を見いだし大人になるというほどの重大な変化成長をなしとげる。

 最後のカブが王子になる点については、笑いをさそうけれども、ちょっとやりすぎて世界の法則を壊しかけているせいか、違和感がぬぐえない。
 あと、サリマンに戦争をやめさせる力があるのであれば、ソフィーを守ろうとハウルが闘うべきは上空を飛ぶ戦闘機ではなく、サリマンであるべきなのだが、愚かに見える行動でありながら、戦時の人は目前の戦闘で手いっぱい、戦争をやめさせようと行動することになど思い至らないという点を感じさせもする。

 もっとさまざまに象徴的意味を取りだしてみることもできるけれど、今は、このぐらいにしておこう。

 映画はそれだけじゃない。考える事も大事だけれど、感じる事も大事。
 城の姿や動きの面白さはどうだろう。街の上空を2人で散歩する楽しさは……。
 私は花畑のシーンで、美しさに涙が止まらなくなった。


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2004.02.21

ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還

「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」をみた。
 すごい。あれを、よくぞここまで映像化できてかつ、映画文脈の中にきっちりと収められたなあ、という感動。前2作をみているなら、絶対にみてほしい。二つの塔で少し違和感を出してしまったけれど、このエンディングがなければ指輪物語ではない。
 原作を読んだのは、ずいぶんと昔になる。よい物語は、その中にたたきこまれるばかりでなく、読み終えるのがこわくて、ふるえてしまう。そういう、私が知っている数少ない物語のひとつ。

 トールキンは寓意性を否定していたけれど、文学にせよ絵画にせよ、作品というものはその時代のどこかを多かれ少なかれ映しているもの。寓意というせまいものではなく、もっと大きな時代の雰囲気だとかそういうもののどこかを、望まなくても映している。それでいてかつ、古びない、普遍に達しているのが、古典たりえる条件のひとつだと思う。

 指輪物語というのは、実に独特だ。西洋的な物語の中に、奇妙な響きを持つ。
 敵は異形で、世界を支配しようとしている。それに対抗するために、持てるすべてを使って結束を固める。大義を示し、鼓舞し、人を動かしまとめる。その一方で、ゲリラ的ともいえる、敵そのものの力を失わせる毒矢を敵の懐深くに撃ちいれる。単純化して少々別の意味でいえば敵の主将もしくは主力を倒す刺客を向かわせる。
 このあたりの物語構造は、ごく普遍的なもの。スターウォーズと比べてもわかると思う。
 その中に、何が独特になるかといえば、指輪の存在だ。
 手に入れたものをむしばんでいく。その力にむしばまれていく存在でありながら、その力を消しにいこうとする、あやうさ。さらにその、弱さ。フロドもスメアゴルも。
 考えてみるといい。スターウォーズでは、フォースというものを身に付けこそすれ、それが悪い力にもなるからといって、フォースの存在を消そうとはしない。そここそが、非常にアメリカ的だと思う。

 弱いものが成し遂げた、弱いものこそが成し遂げられた。その最後の結末は、皮肉にもにたあのシーンでなければならない。
 そしてなお、物語が続く。ここもまた、指輪物語を指輪物語たらしめる、独特で大切な点だ。
 アメリカで作ったら、たぶん、王の戴冠式まででカットされてしまっただろうなと思う。
 この点は、何を比較にもって考えるかといえば、実は水滸伝だ。
 梁山泊に好漢が終結するところをおしまいとするか、その後まであるかで、物語はまったく異なった様相を見せる。どちらも流布しているけれど、梁山泊に好漢が終結するところでおしまいにしてしまったほうが、爽快感強く終わることができるだろう。アメリカ的に。
 でも、その後の物語がついていると、まったく別の感慨を生みだす。
 その後の物語がついているかどうかというのは、指輪物語にとって、そのぐらい大きな意味があるのだ。

 欲をいえば、敵の存在だ。西洋的な物語構造の限界だろうけれど、単純に絶対悪として描かれすぎている。
 フロドやスメアゴルの心がゆれるように、サウロンやその配下も心をゆらすことはないのか?
 それをやってしまうと、こういう物語は成立しなくなる、カタルシスを得させるには無慈悲で強大な敵を努力の末に倒すという装置が必要なのだという物語構造の限界と承知していつつ、少々だけ気にする。

 そして、今という時代。自衛隊の映像がテレビで出陣の映像とだぶるように映されている。
 間違えた物語を描かないように気をつけないと、いつのまにか、愛するものを守るために戦うのが当然だという結束にまとめこまれているだろう。映画は映画にとどまってよし。

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