『ハウルの動く城』ちょっと読み解き
『ハウルの動く城』を見た。
いろいろな読みときを考えさせる作品だ。
ひとつは、ハウルと3人の母の物語としての側面。
ひとりは息子の心を自分にとどめておきたい母、息子の恋人でありたがる母、荒れ地の魔女。ひとりは息子を思い通りにさせたい母、息子の意志を認めたくない母、サリマン。ひとりは甘えさせたい母、慈しみたい母、ソフィー。
口でいうほど弱虫には見えないけれども、少なくとも相当に人間的には未熟な子供存在としてのハウル。
3つの母が統合され、納得する状態にならなければ大人への階段は登れない。
母は、息子の心を手放し、息子の意志を認め、息子をいつくしみ世話をするだけでなく、成長をうながし自立させられるようになって、はじめて母として完成する。
これによって、最後に母からの一人立ちがなされ、ソフィーは母から恋人ないし妻の位置に移動する。
ソフィーサイドで見れば、確かに呪いをかけられて困ったはずなのに、逆に若さという呪いから解き放たれることで、本来の、素直でやさしい姿に立ち帰る。
結局、かけられた呪いは確かに一時的に姿を老婆にしたけれど、それはソフィーの心が老婆のそれと同等であるから、形もそれと等しくなったというだけで、呪いというのは心が自分をしばっているのだという点に気がつかないことそのものなのかもしれない。
また、構図の一端は、大切なものを投げださなければ本当の物は手に入らないという事を垣間見せる。
ソフィーは若さを(そして髪)を失い、荒れ地の魔女は力を失った上ハウルの心臓をあきらめ、サリマンはハウルを思い通りにすることをあきらめ、カブは背骨にあたる棒を投げだすことによって、カルシファーはすでに命と不可分のハウルの心臓を失うことで、それぞれの愛や心の平安にたどりつく。
ハウルもまた、心臓を失って得た城を動かすほどのカルシファーの力をひとたびなくすことで、心臓を取り戻し愛を見いだし大人になるというほどの重大な変化成長をなしとげる。
最後のカブが王子になる点については、笑いをさそうけれども、ちょっとやりすぎて世界の法則を壊しかけているせいか、違和感がぬぐえない。
あと、サリマンに戦争をやめさせる力があるのであれば、ソフィーを守ろうとハウルが闘うべきは上空を飛ぶ戦闘機ではなく、サリマンであるべきなのだが、愚かに見える行動でありながら、戦時の人は目前の戦闘で手いっぱい、戦争をやめさせようと行動することになど思い至らないという点を感じさせもする。
もっとさまざまに象徴的意味を取りだしてみることもできるけれど、今は、このぐらいにしておこう。
映画はそれだけじゃない。考える事も大事だけれど、感じる事も大事。
城の姿や動きの面白さはどうだろう。街の上空を2人で散歩する楽しさは……。
私は花畑のシーンで、美しさに涙が止まらなくなった。
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