春を感じる日
気がつくと、梅もスノードロップも終わりかけていて、すっかり春の明るさの陽。
チューリップものびて、つぼみまで秒読みの体制を整えている。
日々の進みはゆるやかで、でも確実。
だからこそ、素敵なのだ。
ささやかでいとおしいものに気づけるだけの気持ちを、忘れないでいられるといいな、と思う。
うっすらと瞳閉じても春の風 翠風
梅花飛びひとかけほどの春となる 翠風
気がつくと、梅もスノードロップも終わりかけていて、すっかり春の明るさの陽。
チューリップものびて、つぼみまで秒読みの体制を整えている。
日々の進みはゆるやかで、でも確実。
だからこそ、素敵なのだ。
ささやかでいとおしいものに気づけるだけの気持ちを、忘れないでいられるといいな、と思う。
うっすらと瞳閉じても春の風 翠風
梅花飛びひとかけほどの春となる 翠風
ここのところ、とにかくあわただしい。
しなくてはいけないことが多い状態に、さらに次々にあれこれ出てきてしまう。
そして、試験が近くなると別のことをはじめたくなったように、そういうときになると逃避したくなる悪い癖が。
強制されたり、追われることが、すごく嫌いなのだと思う。
(でもそれなしだと、日常身の回り以上の活動をしないかもしれない)。
そして、あわてると、失敗が増えて、ますます後始末に時間をとられたりする。
落ち着いて、順番に。そう、順番に。本当に寒いのはたぶんこれからだけれど、大寒はすぎ、春はそこまできているはず。チューリップも芽を出している。
寒一日忙の一字に蹴躓く 翠風
秋風が吹いて、少しすずしくなると、だいぶ元気になる。
暑さにやられて、夏は、もう、ぐったり。
何人もの人を見送ったり、雨漏りに驚かされたり、お祭りにいったり、それに、吟行にも行った。(旅先の投句ポストに投句してきてしまったから、書かないけれど)
日常の殻は、無理にでも動いて揺さぶり続けないと、しだいに息が詰まってくる。
秋、身震いをして、また踏み出そう。
まだまだ、まだまだ、旅の途中。
はじまる秋は、何の秋?
秋風を受けて眼を空に向く 翠風
なかなか書き込んではいないけれど、季節の動きに心を動かされ続けている。
霜柱が高く土を押し上げる姿に、アリが見れば凍った滝に見えるんだろうなと見入ったりしていたら、あっという間に光の春となった。
数日前、メジロのツッツッピーという鳴き声を聞いた。
湯島では梅まつりが始まっている。
スノードロップが咲き、チューリップも芽を出した。
どこへ散歩に行くのか。それは、天気と気分しだい。
散散歩春は笑みつつ掴まれず 翠風
昨夜、くるぶしまで埋まるほどの雪が降った。
めったに降らないだけに、いつもの風景が見慣れない景色に変わる楽しさに、雪国の人には申し訳ないけれど、それでも心浮かれてしまう。
子供たちがはしゃいでいる。
大人は足元に気をつけながら、なるべく出歩くまいとする。
私は、どちらかというと、出歩きたくなる。
今は、屋根につもった雪がとけて、ドン、ドンと音をたてて落ちるのを聞きながら、雪解けの山のことなど考えたりする。日常と非日常のあわい。
傘に積む雪の結晶玉と化す 翠風
変貌し雪に静まる街である 翠風
7日ともなると、だいぶお正月気分もぬける。
しかしここで、連休が入って、また気分が休みになってしまう。
それにしても、連日、雪のニュース。
雪おろしは経験がないけれど、本当に大変そう。
お手伝いできなくてごめんなさい。がんばってください。
雪おろす姿に力む茶の間かな 翠風
ときどき、幸せというものについて、考えることがある。
せっかくの光のシーズンに、風邪をひいて、どこにもいけなかったけれども、いる場所があり、手足をあたためるものがあり、キャンドルをともせる。これは幸せといえないだろうか?
ささやかなものが積まれて、大きなものになるように、日々のささやかな輝きが、私にもあなたにも、すべての人にも、やさしくそうありますように。
特定の信仰など持たないけれども、そんな祈りをささげたくなることはある。
がんばりすぎなくていい。自分を、すべてを、やさしく抱きしめることが、そんなささやかな輝きの源になるだろう。
めぐる世に幸満ちよと我祈るあるようにあれ日はまた昇る 翠風
ひどく寒くて、着こんでもストーブから離れられないほど。
熱でもでかけているのかもしれない。
昨夜の木枯らしの音は恐ろしいほどだった。電線をならし、窓をガタガタいわせて。
木枯らしという怪物が徘徊する場所に、人間が住みついたのだということを感じなおす。
少しだけ、北欧を思い出した。
人消えて木枯らし行きかう街となる 翠風
種を減らしておけば、来年少しは楽かと思って、久しぶりに、草むしり。
腕にも、足元にも、体にまで、草の種がたくさんついてしまい、後で取るのに苦労した。
草は、こうやって、動物の力を使って、子孫を遠くへ運ばせて、広げ、残そうとする。
風に乗る種。生き物にくっつく種。
あるいは、水の流れに。
生命はなんて確かに、あふれ、満ちているんだろう。
枯園の草の実眠る暖かさ 翠風
休みに、日本海を見てきた。
天気が悪く、寒くて、すでに冬を思わせた。
どんよりとした雲、断崖に吹き付ける、強烈な風。
勢いよく砕ける波頭の白さ、ごつごつした、岩の黒さ。
数えるほどしか見たことがないけれど、その潔癖な強さにひかれる、冬の日本海。
撃ちつける拳も砕けよと冬の浪 翠風
帰るすべなき風なき魂 草紅葉 翠風
台風が過ぎると、街そのものが洗われたように、なにかすがすがしい。
暑さでたまっていたけがれが払われたよう…みそぎに通じそうだ。こういうのは、清らかさを重んじる日本的な心情なのだろうな。
荒神の清めの台風街を行く 翠風
暑い日が続くけれど、暦の上では、すでに秋。
ふと、今年は蝉が静かだなと思った。
例年、暑さに追い討ちをかけるように鳴いているのに、今年はさっぱり聞かない。
それはそうと、やけにあっさり衆議院が解散してしまった。
もう少し何か、ごたごたするかと思ったけれど。
一連の動きを見ていると、民主主義ではなく、全体主義っぽい。
内容に口出しさせず脅迫、それで言うことをきかなければ粛清。
私はこういうのが、大嫌いです。
ここにありと渾身で鳴け秋の蝉 翠風
昨夜、神宮外苑花火大会を見に行ってきた。
都心なので、大きな玉のものはないが、1時間に1万発以上という規模で、一気に夏気分が盛り上がった。
暑さでふらふらしているのも夏だけれど、花火やお祭りを楽しめるのも夏ならでは。
機会をとらえて、思い切り楽しもう。
華やぎの音も天へと夏花火 翠風
変則的に動いているので、世間が連休だと沸くときに休んでいなかったりする。
それでも今日はお休み。
久しぶりに銀座に行ったら、かなりな人出だった。
今日は、横浜の花火大会だそうだ。
以前に行ったことがある。海の上に上がる花火は、それは美しかったけれど、人ごみもものすごかった。
それでも、年に一度ぐらいは花火も見たい。
8月あたりにどこかで見ようと思う。
それにしても、案内に、打ち上げる数を、何千発とか、何万発とか書いてあるけれど、人出の方がずっと多いななどと、雑感。
夏花火夢に倍増す客の数 翠風
天気が良かったので、外まわりのことをする。
もっとしなければならないのに、暑すぎてすぐにダウン。
無理しないようにしているので、はかどらないことこの上ない。
ナスが育ったので賞味した。
また花が咲いているので、また実り、育つだろう。
めぐりの恵みをありがたく受け止める。夏の日差しを受けて日々育つ小さな命を身近に見つめていられる嬉しさ。
ひとつ取りまたひとつ生る茄子の夏 翠風
先日咲いていたうす紫の花が落ち、かわいらしい小茄子が生った。
茄子は実のつきがいいので、「親の小言と茄子の花にはひとつの無駄もない」などといわれるらしいけれど、過去に育てたことのあるベランダ茄子は、それほどたくさん実をつけてくれなかったので、実感したことはない。
子茄子、子なす、こなす… と、つついていたら、とげで痛い思いをした。
小さいから馬鹿にしたわけではないけれど、しっぺ返しを受けて、ふと、こなすということを馬鹿にできないなと思う。
日々のあれこれを、とどこおりなく流していくこと。
それは、当たり前のようでいて、結構難しい。
こうして心に浮かんだあれこれを、つぶやき続けていることも、日々の中のひとつのこと。
こなしていけばいいようでもあるし、こなすで片付けきれないことでもある…
浅瑠璃の葉陰の子茄子夏涼し 翠風
梅雨入り宣言が出されたと思ったら、いきなり上天気になった。
明日も晴れるらしい。
まるで、これからたくさん降らせるので、今のうちに太陽を取り込んでおいて、という、猶予期間のようだ。
眉しかめつつ雨を待つ梅雨の晴 翠風
ふとプランターの茄子の花が咲いているのに気がついた。
淡い紫の花。
水彩のような、水でとけてしまいそうな色だ。
プランターに一本がせいぜいで、ずらりと並んだ茄子などはない。
森も林もない、あるのはビルばかりの場所で、わずかなものにしがみついているのはわかっている。
そして、それぐらいが、今の私の身の丈にあった自然とのふれあいなのだろう。
淡い夜の色を映して茄子の花 翠風
枇杷を食べた。
種が大きくて、食べにくいという人もいるけれど、とても季節を感じる果物だ。
種のまわりのわずかな渋みに至るまで、6月の味だなと思う。
多くの果物が季節も旬も忘れて店頭にならぶ中、生の枇杷はあいかわらず、ごく短い期間しか手に入らない。
食べ物というのは、多く、記憶に刻まれた味を持っている。
枇杷もまた、それを好きだった人の記憶の味だ。
記憶が積み重なってゆき、人はものを食べるときに、人を偲ぶようになるんだな、と。
枇杷の実の人肌の肌理 小夜更ける 翠風
ようやく晴れて、一段落かと思えば、また数日、雨になるとか。
でかけるのがおっくうになるので、梅雨はあまり好きではないが、この時期だけしか楽しめないものもある。
そのひとつが、あじさい。
つぼみが少し色づいているものもあったから、あと10日ほどだろうか。
この季節は、あたりに弧が満ちる。
紫陽花の丸い姿も弧だし、傘も弧、雨の多いシーズンに発生しやすいというキノコも弧。
円弧の中にそれぞれが優しい居場所を見つけている。
弧の中にそれぞれの笑み走り梅雨 翠風
都会育ちのせいか、雑草を抜くときに躊躇します。抜けなければ、育てている草木にも影響が出るし、草ぼうぼうにしてはいけないのがわかっているのに…。こういう感傷は、野菜畑などで草と戦ってきた人たちにいわせると、手ぬるいようです。
でも、仕方がないではないですか。
がんばって生きている草を、その命のありようを一抜きで否定してしまうようで、どうしても心が痛むのです。
躊躇し、しばし生命力に満ちた草のありように感歎し、小さな命をうたった一茶の句を思い出したりします。
植えた種は大事にして、勝手に生えてきたものは大事にしないということについて、考えたりもします。
でも最後には、抜かなくちゃと決心して、ようやく手を動かす。
だからいつも、草むしりのときの私の時間は、とてもゆっくり流れています。
草むしりをしていて出るため息は、大変だからではなくて、心苦しさから出てしまうものなのです。
田植え花黙礼しつつの草むしり 翠風
体調が思わしくなくて家で一日ゆっくりしていた。
こういう日は、「ひねもす」のことを考える。
ひねもすのたり…という有名な句の、あの「ひねもす」だ。
子供のころ、「ひねもす」という生き物がのたりのたりしている海というのを想像していた。
くらげのおばけのような、ぷにぷにしていて、でも短い手なんかあって、赤ちゃんみたいな指がついていて…そんな、へんてこりんな生き物だ。
それが波打ち際で、のたりのたりと波と戯れている。
誤解がとけた今でも、ときどき、ひねもすを波とたわむれさせて遊んでいる。
空恋しひねもすごろりと春の夢 翠風
治す方法のない病気の人を、遠方までお見舞いに行った。
家族が明るかったので、逆に励まされた。
帰ってきても、まだ芽は出ていなかった。
いつになるのだろう? まだまだ? もうすぐ? それとも…?
とても過ごしやすい、出かけるのに最適な季節。命が生き生きと賛歌をうたう季節。
桜もそうだけれど、この季節も、迎えることができたとしても、あと何十度。
命も、輝きも、すべては風のようなもの。
世界は、ただただ美しい。
ただ満ちよ若葉芽ぶかせ生命生命 翠風
じっくりと水につけてふくらませ、植えた種が芽を出すまで、とてもとても期待してしまう。
シカクマメは、いったいどんな芽を出すのだろう?
逆にカイワレのようにすぐに芽が出るのも生き生きしていて楽しい。
チューリップもそうだけれど、一日のうちに姿を変える動きのすばやさが、動物に近い感じがする。
目をこすりあくびして種春を待つ 翠風
やわらげた土あたたかに種の床 翠風
眠る子の目覚め待つよに新芽待つ 翠風
元気すぎるチューリップが、だんだん開きすぎるようになって大きな花弁を落としだす。
再びハナミズキが枝先でほほえんでいる。
帰れば、シクラメンが盛りと葉より多くの花をつけ、4年目のデンドロビウムが、なんとか今年も咲いてくれ、いくばくかの花をつけている。
花それぞれに咲く。それが、いとおしい。
チューリップあごをはずしてはしゃぎ散る 翠風
見え隠れひそひそしんとハナミズキ 翠風
道を歩くと、あっという間にあちこちでチューリップが花開き始めているのが目につくようになりました。
今日は、不忍池に名残の桜を見に行きました。
ソメイヨシノはわずかに残っているばかり、山桜が一輪一輪が大きくて八重の花をつけ始めています。
柳がきれいで、初夏を感じさせる日差しでした。
これから、ぐんぐんと緑は濃さを増し、多少の戻りはあっても夏へと向かっていくことでしょう。
2005年の桜は短かったけれど、一気にいっせいに花開いたので、とてもみごとでした。
散るころには、花びらばかりでなく、さまざまなものが雨のように降ってきます。
ひとまわりしたら、ずいぶんと髪に名残が残っていました。
降る蘂の名残の桜髪を梳く 翠風
小梅はどうして、こんなにがんばるのだろうと不思議に思うことがある。
桜であれば、ほんの一週間ほどなのに、寒いころから数週間にわたって、枝に根を張ったかのように咲き続ける。
寒さも、雪も、雨も、すべてを微笑んで流していくばかりか、見る者をその命のありようで力づけてくれる。
だから見つめる心に、しぜんに感謝の気持ちがわいてくる。
小さな命への讃歌をつぶやこう。
曇れども精一杯に小梅かな 翠風
あいかわらず、荷物が片付かなくて、他にすることも次々出てきて、梅を見にいくことができないでいる。
小さな梅は、まだ満開にならない。つぼみが日々、光を吸って微笑むようにふくらんでいく。
湯島はそろそろいいころかもしれないと思うけれども、遅いとか早いとか比較することに意味はない。
小さな梅は、春のさきがけの光を懸命にとらえて咲く感じがしていい。
小梅笑む忙を唱える我も笑む 翠風
この一ヶ月ほどは、次から次へとすることができてしまい、あっという間に過ぎてしまった。
その間に春が立ち、いまやすっかり、光の春。
ささやかな場所はもうなくなってしまったけれど、小さな梅の鉢は残った。
この我が家の小さな梅が満開になるころには、この忙しさもひと段落つくはずだから、そうしたらまた、湯島にでも梅を見にいこう。
我越せば鉢ごと飛んで今年の梅 翠風
暖冬とはいえ冬。その中の比較的暖かかった一日。
2月も近づき、しだいに、光が春を予感させるものに変わってきたのがわかる。
朝にならない夜はなく、春の来ない冬はない。春夏秋冬。永遠の連環。
その中にいるからこそ、それを見つめ、感じ続けていたい。
屋根すべり斜に射す光冬ぬくし 翠風
暮れも押し迫っての、またしてもの大地震。津波。
募金をする以上の何もできなくて、歯がゆい。
自然の力が身にしみた一年。
わだつみは無情に非ず あるようにある大きさの超えてあるのみ 翠風
そして、今日は、すべてを清めようとするかのように、雪。
年初の告別式の日を思い出した。
雪舞えば路地すべからく異郷
黄昏を待たずして幽明通じるが如し
冬至を過ぎた。
今日は、日差しはしっかりあったけれど、ようやく冬らしい寒さが実感できた。
24日を過ぎると、街はクリスマスから一気に年越し準備へと道行く人を駆り立てるようになる。
クリスマス用品と共に、しおれかけたポインセチアが安売りされていた。
生きている命に変わりはなくても、これも、その時を過ぎると急速に色あせてしまうもののひとつ。
サンタ去りポインセチアの時も過ぐ 翠風
今年の漢字は「災」だという。
「災」の字を書くとしたら、赤、それも少しだけ朱の入った赤だろう。
12月も半ばにして、ようやく楓が紅葉しているが、落ちていた葉の、くるりとそりかえった形が「災」の字に似ている。
今年一年、各地を襲った災いのすべてが、楓の葉に変わって散り消えてしまえばいいのに。
災いを葉に吸い取って楓散る 翠風
今年は例年になく、他界した親族や知人が多かった。今日も告別式に出席。
異常気象で、12月というのに気温は25度を超え、夏のような入道雲まで見られる晴天での見送りとなった。
体調不良を押して動き続けているため、帰宅後すぐに寝込む。夜中にようやく起きてこれを書いている。
行きに、昨夜の猛烈な雨風で吹き散らされたイチョウの葉が積もった道を駅に向かったとき、強烈なイチョウのにおいがした。
イチョウのにおいは、植物でありながら、いささか獣のにおいを感じさせる。生なにおい。
喪服を着てそのにおいに接すると、奇妙な不調和にとらわれた。
人の死というものを思い、故人を想いながら、生しい命のにおいにつつまれているという感触。
葬儀場ではしゃぐ子供に感じる思いとも違う。
より、身体感覚に近い生しさがあるように思える。
黒影を黄青に包む公孫樹のにおい 翠風
踏む足を抱いて公孫樹の黄葉青葉 翠風
嵐夜明け公孫樹青黄に散りにおう
告別の空風吹きやまず 翠風
機会があったので、飲んでみた。
去年がめちゃくちゃおいしかった。今年も、それよりはだけど、おいしかった。
一時ほどのブームではなくなっていても、逆に浸透してきたというか、より売っている店が増えた気がする。
日本橋の三越に行ったら、地下一階の入り口を入ってすぐのところに百種類以上ならべられていて、こんなにあるのかと驚いた。
収穫を祝い、新酒のできあがりを祝う。これもささやかな喜びのうち。
被災された蔵でも、酒造を再開したという。以前にも増してよいお酒ができあがるように祈ろう。
海越えて生命の喜び今年酒 翠風
豊穣のしずく今年の新酒着く 翠風
暦の上では、すでに立冬なのだが、近辺にこれという紅葉が見られず、秋はどこに行ってしまったものか、すでに冬を感じさせる寒さばかりが先に立っている。
かろうじて街路樹のハナミズキだけが、それとわかるだけ紅葉している。
今年は本当に災害が多くて、つらい日々を過ごしている人がたくさんいる。冬の寒さが、被災された方々に少しでも厳しくないように祈るばかりだ。
幸祈る言葉閉ざして冬の雨 翠風
ずいぶんと暑くなったなかを出歩いたのもあって、気持ちもだいぶ夏めいた。
空も、おぼろであった春のものから、湿度が減った。
散歩の途中でアオスジアゲハがひらひらしていた。舞うのを追って上空を見あげれば、半月よりやや太めの月があった。その月にさえ、初夏のさわやかさのいくばくかが宿っていた。
うす青い蝶と、うす青い空と、うす青い月と。それらは確かにもう、春のものではなかった。
しだいしだいに移っていく季節に反応して、心もしだいに移っていくのを実感する。
うす青き蝶の変じて初夏の月 翠風
印象的とは何だろう? 他と違うからこそ、印象に残る? 違いが際立っているということ?
雲はすべて空にあるけれど、どれ一つとして同じではない。でもそれなりに似た形はあって、たとえば入道雲ばかりのところに飛行機雲がうまれれば、それは印象的だろう。
誰だって、大切な自分であり、それが同じであるわけがない。
同じことをしなかったからだの、同じ意見を持たなかったからだのといってバッシングするのは、小さい人だなあと思う。
それぞれに違う言葉をつむいでる
それでいいのにそれがいいのに 翠風
現実に、散歩をする。
夢に、散歩をする。
web上で、散歩をする。
ふらふらとした私の生は、いろいろな散歩に彩られている。
地下街を、新しい街がもうひとつできたという感覚で見るならば、webもまた、新しい世界がもうひとつできたようなもの。
風景あり、すれ違う人あり、ふりかえる人あり。
夢と現実をまぜながら、本当に散歩するほうが好きだけれど、ときにはこんな散歩もできる。
不思議な世の中になったなあと思う。
知らぬ地の新緑の写真数増して
webにも初夏の訪れがある 翠風
ああこれがあなたの町の初夏ですか
素直な気持ちも写っていますよ 翠風
(つねづね駄作で失礼ですが、あらすじとそうでないものというのを、少々考えてみたとまあ、そんなあたりです)
このblogにある俳句などは、我流で作り散らしています。ぶつぶつとつぶやいているだけといった方がしっくりきます。
結社に入って磨きあうだの、きちんと誰かの指導を受けるべきだのといったことは、どうもしっくりこないのです。
先生に直された作品を発表されるという子供の頃の嫌な経験は、後をひくのです。
しかし、せっかくこうしてお読みいただけているのですから、無反応というのも味気がありません。
共感できる、いい作品だと思うと思われたら、気軽に短いコメントを入れていただけるとはげみになります。
コメント文とまでなさらなくても、888888 などと、半角でも全角でも結構ですので、拍手の音を表す8を一行以下程度で、お心にかなった数だけ入れていただければ幸いです。
作品は、良心的なご利用であれば、引用自由です。もしお気に召したら、翠風の名前まで入れて、御愛句帳などに加えていただければ、冥利につきます。
ゆっくりしていい一日だったので、電車で2時間ほどかけて、武蔵野丘陵のほうへ出かけた。
多摩のほうほど山ではなく、小山だとか林だとかいった言葉の似合う程度に木がしげった、ほどよいハイキングコースを散歩した。
公園が入り混じっていて、どこからどこまでが何という名前の公園でといったことは定かではない。
野鳥の数が多く、バードウォッチングをしている人をよく見かけた。山のほうでは、知らない同士でも挨拶をしてすれ違うのが街でと違って新鮮だ。
鳴き交わしているつがいの鳥を見て、春だなあと思い、八重桜やヤマブキやつつじやタンポポで黄色とピンクに彩られた新緑の中を歩くのは、とても気持ちがよかった。
久々の、遠足。
花毬で猫も遊ぶか八重桜 翠風
やや登りふっと息つく山吹か 翠風
さえずりを草に伝えて丘陵風 翠風
ここ数日の暑さは、まるで真夏のようだ。
夏の暑さなのに、咲いている花は新緑の季節のもの。
奇妙なアンバランスも、ときには面白い。
手をかざす夏のさきがけ高気温 翠風
夏来ぬと気温ばかりがさきがけて心はさほど春を離れず 翠風
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